昨日、ヴァナキュラーについて書いたのを、カミさんが興味を持ってくれたので、もう少し書いてみようと思います。昔、近所に小さな製材所がありました。おじいさんが一人、掘っ建て小屋を建てて住んでいました。小屋の前に大きな丸鋸が一つ据えてありました。動力はディーゼルエッンジンで丸のことはベルトでつながっていました。エンジンをかけるときは、手で力一杯エンジンのピストンを回してかけます。そのノコで近所の人が持ち込んだ材を挽いて、その手間賃が糧というわけです。いつもいつも製材の仕事があるわけではありませんから、そんなときは屋久杉の瘤を磨いていました、屋久杉は油脂が多いので、腐りにくく磨くと美しい光沢が出て、オブジェのような魅力があって、なかなか高値で売れたようでした。なぜこんなことを書くのかと言いますと、我が工房のロクロもそこで挽いてもらったからです。椨(たぶ)という硬くて重い木です。そのろくろは今も現役で毎日使っています。タブノキは昔は家の床材として珍重されました。使い込むと黒く光ってきます。柱は椎、梁は松といった具合に適材適所で使われました。もちろん、家の周りから切り出して、近所の製材所でわいてもらいました。わくとは島で製材するという意味です。屋根は平木といって島の杉を薄くそいで作りました。木目に平行に割るので、丈夫で雨が漏りにくいのです。島の杉は油が多く腐りにくく耐久性に優れていました。
島に来た頃には流石に平木の家はほとんど見かけなくなって、セメント瓦になっていましたが。風の強い地域では、平木時代と同じように屋根に大きな丸い石をのせて、風に飛ばされないように備えていました。初めてその光景を見たときは、感動しました。まるで、自然と一体化して見えましたから。家を立てるのも、大工さんを中心に、近所の人がみんなで手伝います。昔は重機もありませんでしたから、全てが人海戦術でした。我が工房も、元は中学校の木造校舎を移築しました。大勢の人の助けで出来上がったものです。屋根裏に上がると、松の大きな梁が見えます。大昔ですから、製材したものではなく、手斧で一本ずつ削り出したものです。聞くところでは、全て、地域の人たちが力を合わせて、建てたとのことです。その頃から、どれぐらいの年月が過ぎたのでしょう。今も健在で、雨風から守ってくれています。昔から、力を合わせて支え合ってきた、まさにヴァナキュラーな生活だったと思います。