今朝は、昨日までとは違って、空気がキリっとした感じがありませんでした。庭で草を取っていたら、アジサイが顔を出しました。草に覆われていたので気が付かなかったのですが。蕾が膨らんでいました。枝先には去年の枯れた花。しかし、すぐ下には蕾。枝を切ってしまうにはかわいそうなので、枯れた花をそっと切ってあげました。ほんのり白み始めた空を虫が飛んでいます。冬を越して元気に春を望んでいたのでしょうか。立春を過ぎて、そろそろお目覚めの季節です。
陶芸屋久島日記
2026年2月5日木曜日
2026年2月4日水曜日
草
一か月ほど、朝の暗い時間にヘッドライトを付けて草取りをした結果ある程度の結論が出ました。草をもって草を制す。色々な花を植えてきましたが、ことごとく枯れてしまいました。こうなれば、庭を変えるしかありません。丈夫な草を育てて、サースの浸食を止める。サースという植物の本性が最近見えてきた気がします。擬態を使う。木の脇に育ったサースは、自分を木のように変化させます。そして、周りの植物を枯れさせて葬る。色々な植物を、そうやって征服してきたのでしょう。人間は動物です。足があって移動が出来ます。サースがいくら頑張っても、自由に動き回ることはできません。そこで、動物である人間は知恵と移動する能力を使って、大地に挑むことが出来ます。明日からも、まだまだ戦いは続きます。
2026年2月3日火曜日
節分
気が付くと節分です。カミさんは、家に小さなお雛様を飾ったそうです。庭の草取りも始めたようです。こっちは今日も朝から家の下の段で草取り。今年は三日から始めましたので今日で一か月が経ちます。二年にわたり、放っておいたので足を踏み入れることが出来ませんでした。何年にわたり、毎年花を咲かせてくれていたサツマ野菊もいつの間にか消えてしまいました。シモツケも枯れてしまったようです。なまじっか、肥料をやったりしたので、サースの勢いがついて、ほかの植物たちの光合成を阻害してしまったようです。二年間にわたり、膝と腰を痛めてしまい、外仕事が出来なくなりました。まだ完全ではありませんが、何とか動けるようになりました。ところが気が付けば頑張りがきかない歳。こんな風に少しずつ、自然に帰ってゆくのかなあと、最近はあきらめの境地です。でも生きてる限りは前を向いて。何とかあらがってゆきたいと思っております。
2026年2月2日月曜日
定めⅣ
定めの話も今日まで。最後に、大好きなあざみの歌の歌詞を書きます。「山には山の愁いあり 海には海の哀しみや まして心の花園に 咲きしあざみの花なれば」。「愛しき花よ 汝はあざみ 心の花よ 汝はあざみ 定めの道は 果てなくも 香れよせめて わが胸で」。 定めの道なのであります。
2026年2月1日日曜日
さだめⅢ
職業にもさだめはあるのでしょうか。最近須恵器が気になって、本を見ていたのですが、母方の姓がスエキ。須恵器を焼いた人たちは集団で過ごしていたと書かれていました。まさに、我が母方の一族と関係がありそう。母の兄は水道屋を営んでいました。地面を掘る仕事です。昔、島で土探しをしていた頃、植物を研究していた友人が、木の枝を見上げてばかりいました。こっちは地面ばかりに気になって、足元ばかり見ていたのを思い出します。人それぞれ、気の向く方向が違っていたのがおかしかったのです。職業病というべきか、興味の対象というべきか。人それぞれです。島でほぼ一年間粘土探しに明け暮れたことが懐かしく思い出されます。
2026年1月31日土曜日
定めⅡ
昨日の続き。陶芸という仕事に初めて接し、まさにこれだという感じを持ちました。絵を描いていた時から、どちらかというと絵具を自分で作ってみたいとか、キャンバスの作り方の方が気になっていました。素材への思いが強かったようです。それが、いきなりまずは土探し、窯づくり、それも薪の窯です。薪も、山に入って木を切り倒すところから始めました。まさに素材そのものから。自然の中で材料を見つけ、それが、最終的には器へと変化してゆく。まさに探していたのはこれだ!思ってしまいました。まさに運命的な出会いでした。それが、あろうことか一年としないうちに、東京へと舞い戻ることになりました。人間関係で躓いたのが原因でした。しかし、陶芸への思い冷めやらず、とある陶芸の研究所へと通い始めました。一年経った頃、街を歩いたとき偶然にも島で陶器会社をやっていた社長さんとばったり。またもや運命的な出会いでした。その時、告げられたのが、また島で焼き物をやらないかとの誘いでした。集まったメンバーがほとんどやめてしまったとのことでした。そこで再び島に戻る決心をしました。
2026年1月30日金曜日
さだめ
人の暮らしには、定めのようなものがあるのでしょうか。そもそも屋久島で暮らすことになったのも定めのようなもの。今では思い出せないのですが、なぜか屋久島のある会社。島でパイナップルを育てようとしていた。その本社が東京の四谷にありました。何故四谷にいたのかは、思い出せないのですが、子供のころそこで暮らしていたのです。夏の間、どこか遠い所へ行ってみたいなと思って、偶然拾った新聞に、アルバイト募集の広告を見つけました。早速電話したところ、もう締め切ったとのこと。偶然近くだったので、話だけでもと言って事務所に押しかけました。それがそもそもの始まりでした。そして、そこに偶然会社の社長さんがいて、今度屋久島で焼き物造りを始めると聞かせてくれました。こっちが絵の勉強をしているという話をしたら、もしよかったら手伝わないかという事になりました。そんなことがきっかけで、屋久島に足を運ぶことになったのです。