2020年3月28日土曜日

角パンケーキ皿

昨日、作った型を使って、角皿を制作しました。

前に注文を書き留めたノートを見ると、パンケーキ用の皿となっていました。確かに切り分けてから載せるのにはちょうど良さそうです。ただ、丸いままでは無理ですが。スラブローラーで伸ばしたタタラを使いました。ラジオを流しながら。聞いていると、今日が最後と言う人もいて、長い間耳慣れた人の声が聞かれなくなるのは、寂しい気もします。今日は、お客さんからメールをもらって、朝ドラのスカーレットの最終回を見たら、どうしてもメールしたくなりました、と言うことでした。旅の途中で訪れた、我が工房を思い出してくれたようです。こんな時勢ですから、のんびりとして空気の綺麗な屋久島を思い出していただき、ありがたいと思います。これ以上感染が広がらないことを祈っています。

2020年3月27日金曜日

角小皿の型

今日は角小皿の型を作りました。前に、お客さんから、今作っているお皿より一回り大きいのを作って欲しいとの注文があって、その時は型を使わないで制作しました。最近また、同じような皿を探している人が来ましたので、今度は型で作ろうと作り始めました。ところが、石膏が古くて、どうも湿気ているようです。水で解いたところ、あっという間に固くなります。大慌てで流し込んでなんとか型ができましたが。

もう少し、湿ってしまうと、固まることもしなくなります。なんとかギリギリでした。最近は色面と言って、色をかけ分ける技法ばかりやってましたが、今回は色を散らす技法で焼こうと思っています。そちらも、前はかなりハマっていたのですが、なんとなく興味がうつってあまりやらなくなりました。最近、昔はまっていた技法を復古させることが多くなりました。原点回帰というと格好良く聞こえますが、どうも、ネタ切れという感じもしています。何か次のチャレンジを考えようと思っています。

2020年3月26日木曜日

麹町

昨日麹町のことを少し書きましたが、実はあの街とはもう一つ大きな縁があります。1972年の夏でした。友人と二人、市ヶ谷という駅のホームでのことです。何か面白いことないかなあと、ゴミ箱からスポーツ新聞を拾って見ていますと、求人案内に「南の島、屋久島で別荘の管理やパイナップル畑の草取り」というのを見つけました。そして、事務所が麹町となっていました。市ヶ谷の駅からですと歩いてすぐのところです。子供の頃あの辺がテリトリーでしたので土地勘がありました。早速尋ねてみることにしました。一緒にいたのは絵画の研究所時代の友人で、その頃は撮影所で大道具のアルバイトをしていた男でした。ところが、行ってみると、もう締め切ったということでがっかりしていると、偶然、その会社の社長さんが声をかけてくれました。ちょうど、新しく、陶芸の窯を始めるのだが、手伝う気はあるかとのこと。もう、嬉しくなって飛びつきました。その頃在籍していた、美大に馴染めず、ほとんど学校には行かず、街をぶらぶらしていた時でしたから。そんな縁で屋久島に来ることになったのです。島までのお金がなくて、二人で船の荷揚げの仕事を徹夜でやって大枚8000円を持って、夜行バスと鈍行を乗り継いで屋久島にたどり着いたのでした。ところが一年も経たずに島を離れることになってしまいました。酒を飲んだ上で喧嘩になって、飛び出したのです。何しろ、癖だらけの男達が4人、朝から晩まで一緒にいるのですから。とりあえず、実家に帰って、陶芸の研究所へ通って勉強することにしました。するとある日、屋久島焼の社長と街でばったり出会ったのです。新宿の街で、声をかけられました。そして、今、屋久島の工房には沖縄からのおじいさん以外には誰もいなくなったこと。もし、できることなら帰ってくれないかと言われました。

当時、どこかで窯を始めたいと、いろいろ探しているところでしたから、再び島へと戻ることにしました。あれからも、いろいろありながら気がついたら50年近い歳月が経ってしまいました。思い起こしますと、二度の縁が陶芸と屋久島いう世界に引っ張ってくれたのでした。時間が過ぎて、どうしてあの時、麹町の近くにいたのか、新宿の街を歩いていたのか、全く思い出せません。人はそれを縁と言ったり運命と呼んだりするのでしょう。単なる偶然に過ぎないのかもしれません。それでも時々、不思議だなと思うのです。

2020年3月25日水曜日

番町皿屋敷

岡本綺堂の短編集の中の、番町皿屋敷を読みました。綺堂は、子供の頃から、関東大震災で家が焼けるまでずっと麹町に住んでいました。番町は当時は麹町の中に含まれていたようです。そして、大きく見ると四谷のエリアに入ります。なぜ、そのようなことを書くかと言いますと、実は生まれた時から中学校を卒業するまで、四谷で育ったからです。四谷というところは、江戸城の外堀で南と北に隔てられ、南側が麹町、北側が新宿四谷となります。そして、ちょうど外堀土手沿いに線路が作られて、中央線と総武線が通っています。家は外堀沿いのすぐ北側にありましたから、学校は線路の向こうの番町や麹町に通いました。いわばあの辺りが子供時代を過ごした、懐かしい所になります。なぜか、あの辺りが舞台の怪談話が多く残っています。四谷怪談に番町皿屋敷と。綺堂先生は歌舞伎の劇作家でもありましたから、あの辺りを作品の設定に使いやすかったのでしょうか。ところで、番町皿屋敷という話は、なんとなく知っていたつもりでしたが、綺堂先生が描いた話は、だいぶ違って、切ない純愛物語になっていました。

簡単に筋を書きますと大身旗本と女中お菊が恋仲になり、身分違いのために男に縁談が持ち上がった時、お菊が男の心変わりを疑って、家宝の皿を割ってしまいます。最初は、男はお菊の粗相を気にもとめませんでしたが、のちに自分の純粋な心を疑われたことに逆上してお菊を殺めて、井戸へと投げ捨ててしまいます。家宝の皿の残り9枚も粉々にして、井戸へと捨ててしまいました。家宝の皿、10枚全てが割れた時、家は滅びるという言い伝えの通り、家はどんどん荒れすさんで、最後に腹を切る決心をします。その時井戸から、美しい女性の姿が浮かび上がってくる、というような話になっていました。決して、恨めしやー、一枚二枚・・・と皿を数えるような話にはなっていませんでした。綺堂さんの心の優しさが伝わってくる哀しくも美しい話でした。あの近くには、迎賓館もあり、その前の道を下ってゆくと国立競技場がある千駄ヶ谷に続きます。前のオリンピックの開会式で、航空自衛隊の描き出した五輪の輪も家のベランダから見ることができました。今度のオリンピックでも、同じような演出が予定されていると聞きます。さてさて、どのようなオリンピックになるのでしょうか。ところで、家のすぐ近所には、当時のポスターを描いたことで有名な亀倉雄策さんが住んでいました。広いお屋敷の前でよくボール遊びをして、飛び込んだ球を取りにゆくと、恐ろしい犬に追いかけられた思い出があります。悪ガキ時代のことでした。

2020年3月24日火曜日

ヴァナキュラーII

昨日、ヴァナキュラーについて書いたのを、カミさんが興味を持ってくれたので、もう少し書いてみようと思います。昔、近所に小さな製材所がありました。おじいさんが一人、掘っ建て小屋を建てて住んでいました。小屋の前に大きな丸鋸が一つ据えてありました。動力はディーゼルエッンジンで丸のことはベルトでつながっていました。エンジンをかけるときは、手で力一杯エンジンのピストンを回してかけます。そのノコで近所の人が持ち込んだ材を挽いて、その手間賃が糧というわけです。いつもいつも製材の仕事があるわけではありませんから、そんなときは屋久杉の瘤を磨いていました、屋久杉は油脂が多いので、腐りにくく磨くと美しい光沢が出て、オブジェのような魅力があって、なかなか高値で売れたようでした。なぜこんなことを書くのかと言いますと、我が工房のロクロもそこで挽いてもらったからです。椨(たぶ)という硬くて重い木です。そのろくろは今も現役で毎日使っています。タブノキは昔は家の床材として珍重されました。使い込むと黒く光ってきます。柱は椎、梁は松といった具合に適材適所で使われました。もちろん、家の周りから切り出して、近所の製材所でわいてもらいました。わくとは島で製材するという意味です。屋根は平木といって島の杉を薄くそいで作りました。木目に平行に割るので、丈夫で雨が漏りにくいのです。島の杉は油が多く腐りにくく耐久性に優れていました。

島に来た頃には流石に平木の家はほとんど見かけなくなって、セメント瓦になっていましたが。風の強い地域では、平木時代と同じように屋根に大きな丸い石をのせて、風に飛ばされないように備えていました。初めてその光景を見たときは、感動しました。まるで、自然と一体化して見えましたから。家を立てるのも、大工さんを中心に、近所の人がみんなで手伝います。昔は重機もありませんでしたから、全てが人海戦術でした。我が工房も、元は中学校の木造校舎を移築しました。大勢の人の助けで出来上がったものです。屋根裏に上がると、松の大きな梁が見えます。大昔ですから、製材したものではなく、手斧で一本ずつ削り出したものです。聞くところでは、全て、地域の人たちが力を合わせて、建てたとのことです。その頃から、どれぐらいの年月が過ぎたのでしょう。今も健在で、雨風から守ってくれています。昔から、力を合わせて支え合ってきた、まさにヴァナキュラーな生活だったと思います。

2020年3月23日月曜日

ヴァナキュラー

今日は、納品と買い物に出かけました。空は晴れて暖かく、うららかな日和でした。若い、旅行者の姿もちらほら見かけて、少し落ち着いてきたように思えます。買い物は、新築移転したホームセンターが主な目的です。売り出し三日目ですから、それほど混雑してないのではと思ったのですが、いやあ、ものすごい人でした。店員さんたちも疲れ切った様子でした。新しい店舗は、島の杉を使って建てられた、まさに木造建築で、前の店舗と比べると、かなり大きくなりました。建築の世界では地域の材料を使うことをヴァナキュラーというようです。新しく建てられた庁舎も島の杉が使われています。近頃は、そういう方向になっているのかなと思います。そこで思い出したのが、初めて建てた工房のことです。古い写真を見つけました。

山の中に、杉の丸太で建てました。柱を地面に埋め込んだいわゆる堀立て小屋です。あの頃はチェンソーもありませんでしたから、手ノコで一本ずつ切っては、担いで運びました。鉈で枝を落として皮も剥きました。屋根と壁は茅を切ってきて葺きました。電気もガスも水道もありませんでした。近所の人たちが手伝ってくれました。今思えばまさにヴァナキュラーな建物でした。窯も、島の土を掘ってきて造りました。

レンガは、島の電力会社から廃材をもらってきました。まさに、現在に至る原点がそこにありました。今日は、ホームセンターの売り出しで、丸ノコを買いました。あの頃、道具は全て手工具でした。思えば、遠い昔になりました。

2020年3月22日日曜日

打って変わって

昨日とは打って変わって朝から大雨。畑仕事はお休みしました。ハウスにもゆきませんでした。ちょっと疲れ気味でしたから。昨日、下仕事を終えた箸置きを仕上げました。たくさん作ったので三分の一ほどでしたが。昼過ぎから体験一組。手びねりでした。窓を開け放っても、今はちょうどよい季節です。雨が上がって、時折お日様も顔を出します。手のついたカップと蓋物を作っていました。

二人とも土がだいぶ余っていましたが、すっかり満足したようで、一つずつ作ってゆきました。