昨日麹町のことを少し書きましたが、実はあの街とはもう一つ大きな縁があります。1972年の夏でした。友人と二人、市ヶ谷という駅のホームでのことです。何か面白いことないかなあと、ゴミ箱からスポーツ新聞を拾って見ていますと、求人案内に「南の島、屋久島で別荘の管理やパイナップル畑の草取り」というのを見つけました。そして、事務所が麹町となっていました。市ヶ谷の駅からですと歩いてすぐのところです。子供の頃あの辺がテリトリーでしたので土地勘がありました。早速尋ねてみることにしました。一緒にいたのは絵画の研究所時代の友人で、その頃は撮影所で大道具のアルバイトをしていた男でした。ところが、行ってみると、もう締め切ったということでがっかりしていると、偶然、その会社の社長さんが声をかけてくれました。ちょうど、新しく、陶芸の窯を始めるのだが、手伝う気はあるかとのこと。もう、嬉しくなって飛びつきました。その頃在籍していた、美大に馴染めず、ほとんど学校には行かず、街をぶらぶらしていた時でしたから。そんな縁で屋久島に来ることになったのです。島までのお金がなくて、二人で船の荷揚げの仕事を徹夜でやって大枚8000円を持って、夜行バスと鈍行を乗り継いで屋久島にたどり着いたのでした。ところが一年も経たずに島を離れることになってしまいました。酒を飲んだ上で喧嘩になって、飛び出したのです。何しろ、癖だらけの男達が4人、朝から晩まで一緒にいるのですから。とりあえず、実家に帰って、陶芸の研究所へ通って勉強することにしました。するとある日、屋久島焼の社長と街でばったり出会ったのです。新宿の街で、声をかけられました。そして、今、屋久島の工房には沖縄からのおじいさん以外には誰もいなくなったこと。もし、できることなら帰ってくれないかと言われました。
当時、どこかで窯を始めたいと、いろいろ探しているところでしたから、再び島へと戻ることにしました。あれからも、いろいろありながら気がついたら50年近い歳月が経ってしまいました。思い起こしますと、二度の縁が陶芸と屋久島いう世界に引っ張ってくれたのでした。時間が過ぎて、どうしてあの時、麹町の近くにいたのか、新宿の街を歩いていたのか、全く思い出せません。人はそれを縁と言ったり運命と呼んだりするのでしょう。単なる偶然に過ぎないのかもしれません。それでも時々、不思議だなと思うのです。